厳しかった三重県選抜選考メンバー18名からの広島国体出場の8名に選出。

韓国遠征時、宿泊ホテル会議室でのメンバー発表は今でもはっきりと記憶にあります。

地元の強豪、四日市工業高校での主将の経験は人生のプラスになっている。当時のチームメイトには感謝しかありません。


バレーボール

中学に入学し理由はよくわからないが、バレーボールが無性にやりたくなりました。

ただここでも大学病院の先生の「投球動作のない競技を!」の言葉が立ちはだかる。

「よし!利き腕ではない左腕でバレーをやってみよう!」

周囲は「絶対にできるはずがない」といったが、顧問の先生だけは違った。初めはセッターというアタッカーにトスを上げるポジションからやらせてくれた。

セッターはバレーボールの全体が見渡せるポジション。バレーボールの面白さにはまってしまった。バレーボールを学んだ後にアタッカーにポジション変更。

「大好きだった野球にも背を向けたくなかったし、野球を続けている同級生にも負けたくなかった」「上手くなりたい」この一心で練習した。

バレーボール実績

中学  朝明中学校バレー部主将

    さわやか杯(JOCジュニアオリンピックカップ)三重県選抜に選出

    全国大会にてサーブ賞受賞(当時はまだ少数しかいなかったジャンピングサーブを駆使する)

高校  四日市工業高校バレー部主将

    1996年広島国体三重県選抜のメンバー8人に選出・出場

実業団 高校での実績を評価してもらい、当時実業団9人制バレーボールの王者「三菱電機」に内定。兵庫県伊丹市に生活拠点を移す。

    しかし数年間選手をするも実業団の高いレベルの前に己の不甲斐なさを感じ引退。


共に戦ったユニフォームは大切に保管してました